2011年10月25日

「原理講論」は神様からのメッセージ

「原理講論」の「総序」を読んでいます。

その「総序」の中には、『新しい真理とは』という記述が多く出てきます。新しい真理の必要性を説いた後に、『新しい真理』はどのようなものであるのかという説明がいくつかあるのですが、その中でこういう箇所があります。

『この新しい真理は、神の実在に関することは言うまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神がご自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情も、我々に教えることのできるものでなければならない。(原理講論31頁)』

そうだったんだ!!

新しい真理って、単に神様の実在を説明しているものではなく、神様の希望に満ちた創造の心情や、神様に対して知らず知らず反逆してきた私自身をも見捨てることができず、私自身を救おうと心を砕いてきた神様の悲しい心情をも教えてくれるものなんだ!!

人間を救おうとして、その人間に理解されずに反逆されてきた神様はいったいどんな心情だったのだろう。そういう心情さえも教えてくれるものがこの原理講論なのか!!

あまりそう思って読んでいなかったな〜。

さらに読み進めてみると・・・
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posted by NORIさん at 17:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 統一原理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

仕向ける神様 〜その2〜

「仕向ける神様 〜その1〜」で紹介した原理講論の部分の続きには、アベルとカインのどちらを神が対応する立場に立て、どちらをサタンが対応する立場にたてるのかを説明していますが、結論として神様はアベルが神と対応できる立場に立て、カインをサタンが対応できる立場に立てています。しかし、神様にも事情があったのです。

『ところで、カインとアベルはどちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの方の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。(原理講論292頁)』

神様にとって、カインもアベルもエバの堕落の実であることには変わりがないのです。どちらも同様の立場であるのですが、それでもそれぞれの個体に善を表示する立場、悪を表示する立場としての使命をもたせることでしか、『摂理のしようがなかった』というのです。

どちらも神様にとっては救いたい人間であるにもかかわらず、そうするしか救う方法がなかったという神様の事情があったってことなのか!

全知全能の神様にできないことがあるのか?と思われる方もいると思いますが、原理講論を読んでみると神様の事情があったと考えるしかないのです。

そして聖書の創世記4章6〜7節には『そこで主はカインに言われた。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか、正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」』とあります。

この部分は、NORIさんとしては神様がカインがどのように供え物を準備して、どのような気持ちで神様に供え物を捧げたのか、よく知っていたのだと思います。だから『正しい事をしているのでしたら顔をあげたらよいでしょう』と語られたに違いないと思っています。

そして、カインの中に憤りの心がわき上がってくることを知っていたのだと思います。だから『それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』と語られながらカインの憤りを治めるように諭していたのではないでしょうか?
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posted by NORIさん at 14:49| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 統一原理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月10日

仕向ける神様 〜その1〜

原理講論を読んでいると、神様ってそんなことするの?って思うところがあります。それは以下の部分。

「神はアダムの二人の子を各々善悪二つの表自体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々相対することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物を捧げるように仕向けられたのである」(原理講論291項)

要するに、神様は、一人を神様が対する子(弟のアベル)、もう一人はサタンが対する子(兄のカイン)という立場に決定してから、供え物を捧げるように命じられたってこと。

それは、どんなに心を込めて一生懸命捧げても、神様は兄カインの供え物は最初から受け取らないつもりで(!?)「供え物を捧げるよう仕向けた」ってことになるのでは?

つまりは聖書の創世記4章5節「しかしカインとその供え物は顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」にあるように、カインが憤るように「仕向けた」のだという結論になるのではないでしょうか?

神様は意図的にカインが憤るようにしたということには、大きな意味があったのです。続きは次回!!
統一原理っておもしろい!!
posted by NORIさん at 13:52| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 統一原理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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